![]()
ブログ・コラム
スタッフブログ
2026.08.22
山口の歴史散歩
皆さんこんにちは!一月から管理部に入りました斎藤です。
北九州市出身で、現在は山口市に単身赴任中です。
趣味は旅行とドライブで、山口県内も以前から毎月のようにあちこち訪れています。
今回は、下関市長府の功山寺と、そこから少し足を延ばして吉田の奇兵隊陣屋跡を訪れました。
功山寺は、これまでにも何度か訪れているお気に入りの場所の一つです。
幕末に高杉晋作が決起した場所としても知られています。
元治元年(1864年)12月、幕府による長州征伐が迫り、藩内でも恭順論が強まる中、
高杉晋作はわずか80人ほどの兵を率いて功山寺に入り、
ここに滞在していた三条実美ら五卿のもとを訪れます。
出陣の盃を受けた晋作は、
「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と述べ、
いちかばちかともいえる決起に踏み切ったと伝えられています。
決起したその夜は雪が積もっていたと、歴史書には記されています。
山門へ続くこの階段を下る際、配下の者が心配して馬の口輪を取ろうとしたところ、
晋作はそれを無用として、自ら手綱で馬を操りながら石段を降りたとされています。
今自分が歩いているこの石段を、
晋作が馬の手綱を操りながら降りていったのだと思うと、
何ともいえない感慨があります。
功山寺で決起した晋作は、その直後、現在の防府市である三田尻へ向かいます。
当時、三田尻には長州藩の藩船が停泊しており、晋作はその藩船を奪取。
さらに軍資金を得るなどして兵力を整え、挙兵を成功へと導いていきます。
ファーストホームの本社がある防府市が、高杉晋作の決起の直後に、
その行動の舞台になっていたと考えると、何だか不思議な縁を感じます。
功山寺を訪れたあと、吉田の奇兵隊陣屋跡にも足を延ばしました。
高杉晋作は、奇兵隊の創設にも関わった人物です。
晋作は、従来の身分制度の常識にとらわれず、
武士だけでなく農民や町人など、
身分を問わず志のある者を集めて兵を組織するという、
それまでの常識を打ち破る発想を実行します。
それが奇兵隊です。
身分の垣根を取り払い、能力や志のある者を戦力として取り込んだことは、
まさに晋作らしい発想だったのではないでしょうか。
さらに、高杉晋作の大胆さを物語る、有名な逸話があります。
功山寺決起よりも前のことですが、
下関戦争で長州藩が英国などの四カ国連合艦隊に敗れた後、
晋作は敗戦側の代表として講和交渉に臨みました。
その際、外国側から彦島の租借を求められたとき、
晋作はこれを拒み、なんと『古事記』を冒頭から語り始め、
通訳を務めた伊藤博文や外国側の交渉官を困惑させたという逸話が残っています。
この話は後世に伝わった逸話という面もありますが、
晋作は実際に上海を訪れ、外国に租借された土地の状況を目にしていました。
当時、英国は香港を植民地としていました。
もし彦島の租借が認められていたとすれば、
下関周辺が長期間にわたって外国の租借地となっていた可能性もあります。
通常、戦いに敗れた側が相手の要求を拒むことは非常に難しく、
実際、アヘン戦争に敗れた清国は香港の割譲を拒むことはできなかったことを考えると、
同じく敗れた側の、まだ24歳の若者が交渉の席に立ち、
自分の国の土地を守ろうとしたことは、改めて凄いことだと思います。
伊藤博文が後に高杉晋作を評した、
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し・・・」
という名文を彫り込んだ顕彰碑が吉田の陣屋跡にあります。

功山寺での決起、身分の壁を越えて兵を集めた奇兵隊、
そして外国との交渉。
わずか29年という短い生涯の中で、常識にとらわれず、
その時々の状況を打開するために動き続けた晋作の姿を表す、
まさにぴったりの言葉だと思います。
陣屋跡では、高杉晋作の銅像写真と、
「これより長州男児の……」という言葉が入ったクリアファイルと、
晋作のイラストが表紙に描かれたノートを見つけ、思わず購入してしまいました。

ただ、せっかく購入したものの、
「生半可な気持ちではとても使えない」という気持ちになり、
今のところ、どちらもまだ使っていません(笑)。
何度か訪れている功山寺ですが、
今回は高杉晋作の足跡をあらためてたどり、
吉田の奇兵隊陣屋跡まで足を延ばしました。
山口の歴史に触れて、気持ちも新たになった一日となりました。
お次のブログ担当は防府店営業の古澤君です。
よろしくお願いします。


